2014年5月4日日曜日

10年前と、今が、つながって


ごみ減量推進委員会という市のグループに少し関わっていた頃、ある女性から教わったこと、「循環の“環”を想像することの大切さ」。ごみを捨てた後、そのごみはどうなってゆくのか・・・それだけではなく、何事にも“環”があるのだ。

大学の卒業論文を書くために、地域ボランティアをしている女性にインタビューをした時に感じたこと、「こうして地域のことを考えて活動してくれている人たちがいるから、私はこうして生活できている」。マクロ的視点から見れば小さな活動も、それが“輪”となれば、世界をも覆う大きな活動になるに違いない。

それから、いろんな“わ”を想像するようになった。



颯爽と、阪急梅田駅から阪神へ向かって歩いていたら、動く歩道の埃取り作業をしていた。その作業を横目に見ながら、「この人たちがこの仕事をしてくれているから、私はいつも何気なくこの動く歩道を使えているんだなあ」って気づいた。

見知っている人の支えの有難みを感じることはよくあるけれど、見知らぬ人の支えに気づく時はこんな瞬間。当たり前のことだけど、意識しないと気づけなかったこと。こういうことは多々ある。学費のために奨学金をもらった時、さまざまなボランティア活動に参加した時、ごみ処理場を見学した時・・・。挙げるときりがない。

それだけ、私はいろんなものに支えられている。
いろんなものがつながって、今、私はここにいる。


そんなことをとりとめもなく考える中で思い出したのは、大学で学んだ文化人類学の「機能主義人類学」の考え方。「社会を1つの有機体とみなして、個々の器官にそれぞれの役割があるように、個々の風習や制度のになう役割(機能)に注目する立場である。禁忌や冗談関係といった一見すると奇異なあり方も、その社会全体にとってはなんらかの実用的・象徴的な意味があり、巨視的に社会的な不安・葛藤の解消とか社会的統合の機能などを考えれば、それはただの風変わりな奇習ではない」(山下晋司・船曳建夫編『文化人類学キーワード』より抜粋)

社会を1つの有機体とみなす。個々がいろんな役割を担って、それぞれが補うようにして成立している。ひとりの人間にできることは限られている。だから、そのひとりひとりの人間がそれぞれの分野において、それぞれの活動をする。ひとりの人間がすべてを背負わなくても、ある人間が担えなかったことを誰かが担って・・・それが連鎖して世界は成立する。そのいとおしさ。

じゃあ、私には何ができるんだろうって考える。


そのひとつのカタチが、この『れもんのき』だ。私なりの現実との向き合い方。世の中で起こっているさまざまなことに対して、私ができること、したいこと。そのひとつのカタチなんだと思う。

第1号ではいろんな人の日常のコラムを掲載。ちょうどイラクでいろいろ起こっている時期で、身近からイラクへ思いを馳せられたらと思った。第2号はものづくりのあれこれを掲載。ものにこめられた思いを大切にできたら、そこから環境問題を考えることにもつながるのではないかと考えた。第3号ではいろんな人のはじまりのストーリーを掲載。何かを始める時の原動力は、誰かを元気にするかもしれないと思った。

人のことを想像できる要素が増えるたびに、いとおしく想える人が増えて、そのぶん私も幸せになれるんだと思う。私が知ったそんな要素を誰かと共有できたら素敵だし、誰かが知った要素を私も知りたいと思う。

どこまで想像を広げられるか。ここでいう想像は単なる妄想の類に限らず、知識、経験などの上に成り立つものも含む。いろんな人が、いろんな人のことを想像できるようになって、いとおしく想える人の環ができていったら、世界はどうなるだろう。


※10年前につくっていたフリーペーパー『れもんのき』より。

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