毎朝の通勤ラッシュ。
満員電車を降りて、それぞれの場所へ向かう人々。
その一人ひとりの物語に思いを馳せると、
果てしなく感じられることがあって。
わたしは想像する一歩手前でストップしていたりするのですが。
写真家・鬼海弘雄さんは、
40年以上に渡って、
浅草寺境内で気になる人を見つけては、
その人の人生に思いを馳せて。
撮影をきっかけに、話もする、
人生に触れることだってあるからこそ、つけられるタイトル。
日にちを間違え、花火大会だと思ってきてしまったというひと。
自動販売機で買った酒を飲む、50円玉をネックレスにしたアパッチと名乗る男。
私の東北訛りに、死んだ友人を思い出し、泣き出したひと。
四十八回、救急車で運ばれたと語る男。
二十八年間、人形を育てているというひと。
人形と一緒に二十八年間暮らしているその夫。
美容師だったという早口の男。
仕事が終わると、いつも着物だというトラックの運転手。
「え!!この人、昔は美容師だったんだ。
どんな人生を経て、今があるんだろう」とか。
「28年間も、お人形を子どもとして育てていて・・・
どんな思いを抱えているんだろう」とか。
その写真にうつる人たちが、
どんな人で、どんな人生を歩んでいて、今どうしているのか、
とても興味が湧いてきます。
「こうかもしれない」「ああかもしれない」と、
ひっそりと、妄想してしまうのです。
まちなかで見かけたら、
まちなみに埋没してしまっている、人たちなのかもしれないけれど。
鬼海さんの写真に写る、その人たちはとても際立っていて。
誰もが、自分という物語の
主人公を演じているんだということを思い出させてくれます。
一人ひとりには、物語がある。
どんな人で、どんな状況で生きていて、
今何を感じて、何を思っているのか。
そうやって思いを馳せられるようになっていくと、
当たり前だけど、いろんな人たちがいることに気づきます。
そうやって、いろんな人たちの存在が、
自分の暴走のブレーキになってくれるような気がします。
自分はこうだ、でも、あの人だったらどうか、この人だったらと。
いろんな人たちの存在に気づいた分だけ、
優しくも、強くもなれる気がします。
鬼海さんのメッセージが、またいいのです。
“人が他人にもっと思いを馳せていたり、興味を持てば、功利的になる一方の社会の傾きが弛み、少しだけ生きやすくなるのではないかと”(※功利的=物事の価値を、そこから生み出される効果や利益を第一として判断するさま)。
アナトリアの風景を、願いも込めて、
日本の“懐かしい未来”として紹介したり。
★
展示を見た後日、アーティストトークへ。
その時、感じたことは・・・
★
撮影時間はたった5分。
その前後の積み重ねは無限大。
伊丹美術館でアーティストトーク。
40年以上に渡って、浅草の人々を撮り続けている
写真家・鬼海弘雄さんが、
展示作品を振り返りながら、
撮影背景や思いなどについて話してくださいました。
撮影してから、何年経っても、
ずっと関係が続いている人もいて。
手紙を送ったり。電話で話したり。
いつもの撮影場所で出会っては会話を交わしたり。
同じ場所で撮影し続けているから、数年後、数十年後に再会したり。
雑誌掲載などを通じて、その親族から連絡が来たり。
そこにいることで、そこにいる人たちと出会う。
出会った人たち同士が向き合うことで、
気づく、ほっておけなくなる。その関係性。
一過性ではなく、つながり続けること。
だからこその“何か”があると感じました。
いや、もしかしたら・・・
昔、喫茶店でアルバイトしていた時、
毎朝来ていた人が、しばらく来なくなって。
ちょうど、その人が来なくなった時、
電車で大規模な事故があって。
もしかしたら、それに巻き込まれたのかもしれない・・・と
心配したことがありました(数週間後、いらっしゃってくれたのですが)。
そういう感じなのかもしれないと。
顔を知っているだけだけど、
毎朝注文するものを知っているだけなんだけど・・・
一度出会ったら、気になって。
そういう、ささやかでも、関係性が生じたら、気になる人になるんです。
なんか、うまく言えないんですけど。
人と人が出会うことって、そういうことなのかなあと。
★
鬼海弘雄写真展『PERSONA 東京ポートレイト、インディア、アナトリア』
伊丹美術館で12月24日まで。
http://artmuseum-itami.jp/
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