2012年12月2日日曜日

一人ひとりの顔が見えてくると、世界は・・・

毎朝の通勤ラッシュ。
満員電車を降りて、それぞれの場所へ向かう人々。
その一人ひとりの物語に思いを馳せると、
果てしなく感じられることがあって。
わたしは想像する一歩手前でストップしていたりするのですが。

写真家・鬼海弘雄さんは、
40年以上に渡って、
浅草寺境内で気になる人を見つけては、
その人の人生に思いを馳せて。

撮影をきっかけに、話もする、
人生に触れることだってあるからこそ、つけられるタイトル。

日にちを間違え、花火大会だと思ってきてしまったというひと。
自動販売機で買った酒を飲む、50円玉をネックレスにしたアパッチと名乗る男。
私の東北訛りに、死んだ友人を思い出し、泣き出したひと。
四十八回、救急車で運ばれたと語る男。
二十八年間、人形を育てているというひと。
人形と一緒に二十八年間暮らしているその夫。
美容師だったという早口の男。
仕事が終わると、いつも着物だというトラックの運転手。




「え!!この人、昔は美容師だったんだ。
どんな人生を経て、今があるんだろう」とか。
「28年間も、お人形を子どもとして育てていて・・・
どんな思いを抱えているんだろう」とか。

その写真にうつる人たちが、
どんな人で、どんな人生を歩んでいて、今どうしているのか、
とても興味が湧いてきます。
「こうかもしれない」「ああかもしれない」と、
ひっそりと、妄想してしまうのです。

まちなかで見かけたら、
まちなみに埋没してしまっている、人たちなのかもしれないけれど。
鬼海さんの写真に写る、その人たちはとても際立っていて。
誰もが、自分という物語の
主人公を演じているんだということを思い出させてくれます。

一人ひとりには、物語がある。
どんな人で、どんな状況で生きていて、
今何を感じて、何を思っているのか。

そうやって思いを馳せられるようになっていくと、
当たり前だけど、いろんな人たちがいることに気づきます。
そうやって、いろんな人たちの存在が、
自分の暴走のブレーキになってくれるような気がします。
自分はこうだ、でも、あの人だったらどうか、この人だったらと。
いろんな人たちの存在に気づいた分だけ、
優しくも、強くもなれる気がします。

鬼海さんのメッセージが、またいいのです。

“人が他人にもっと思いを馳せていたり、興味を持てば、功利的になる一方の社会の傾きが弛み、少しだけ生きやすくなるのではないかと”(※功利的=物事の価値を、そこから生み出される効果や利益を第一として判断するさま)。

アナトリアの風景を、願いも込めて、
日本の“懐かしい未来”として紹介したり。



展示を見た後日、アーティストトークへ。
その時、感じたことは・・・



撮影時間はたった5分。
その前後の積み重ねは無限大。

伊丹美術館でアーティストトーク。

40年以上に渡って、浅草の人々を撮り続けている
写真家・鬼海弘雄さんが、
展示作品を振り返りながら、
撮影背景や思いなどについて話してくださいました。

撮影してから、何年経っても、
ずっと関係が続いている人もいて。

手紙を送ったり。電話で話したり。
いつもの撮影場所で出会っては会話を交わしたり。
同じ場所で撮影し続けているから、数年後、数十年後に再会したり。
雑誌掲載などを通じて、その親族から連絡が来たり。

そこにいることで、そこにいる人たちと出会う。
出会った人たち同士が向き合うことで、
気づく、ほっておけなくなる。その関係性。
一過性ではなく、つながり続けること。
だからこその“何か”があると感じました。

いや、もしかしたら・・・

昔、喫茶店でアルバイトしていた時、
毎朝来ていた人が、しばらく来なくなって。
ちょうど、その人が来なくなった時、
電車で大規模な事故があって。
もしかしたら、それに巻き込まれたのかもしれない・・・と
心配したことがありました(数週間後、いらっしゃってくれたのですが)。

そういう感じなのかもしれないと。
顔を知っているだけだけど、
毎朝注文するものを知っているだけなんだけど・・・
一度出会ったら、気になって。
そういう、ささやかでも、関係性が生じたら、気になる人になるんです。

なんか、うまく言えないんですけど。
人と人が出会うことって、そういうことなのかなあと。



鬼海弘雄写真展『PERSONA 東京ポートレイト、インディア、アナトリア』
伊丹美術館で12月24日まで。
http://artmuseum-itami.jp/

0 件のコメント:

コメントを投稿